2025/01/09
江戸の大遊郭・吉原は、今では妓楼で夜ごと開かれる饗宴や遊女たちの華やかさと、それとは裏腹な彼女たちの境遇の悲惨さの対比に注目が集まるが、実際の吉原は、現在の新宿・歌舞伎町のような風俗の街であったと同時に、渋谷・原宿のような流行の発信元でもあり、銀座・六本木のようなあらゆる身分の人々が出入りする社交場でもあった。
江戸人は性愛に対しては寛容であり、吉原に通う男性は独身・妻帯者を問わず、よほど入れ込んで家財を食いつぶさぬ限り、「ある程度は仕方ない」と世間は許したという。
負債を背負うなどの遊女の遊郭勤めの過酷さは周知の事実であり、「貧しい家族を救うため」の立派な孝行というのが一般的だったという。しかも幼少から遊郭で育った女性でも、遊郭の外の男性とはごく普通に結婚できた。来日したオランダ人が記した記録(『日本誌』1727年)の中で、多くの遊女が一般市民とごく普通に結婚し、教育を受けていれば後ろ指を指されることなく一般家庭に入っていることへの驚きを記している。
一方で遊女たちは、現在の芸能人と同様に江戸市民に知られる存在であり、特にその容姿・教養を兼ね備えたトップスターである花魁が大勢の従者とともに水茶屋に客を迎えに行く様は「花魁道中」と呼ばれ、見物人も多かった。その折の髪型や華麗な服装、アクセサリーが流行の先端として江戸の婦人たちに真似されたり、出身地を隠すための「ありんす言葉」が市中で流行ったりした。
もっとも、蔦重がまだ20歳そこそこの若僧だった頃、実は吉原は危機的状況に陥っていたという。(つづく)
✴︎主な参考文献:
松木寛著『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社
安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン
TIMES
連載•小説








