2025/06/23
1767(明和4)年に将軍家治の側用人となった田沼意次が幕政を仕切った明和(1764~1772年)・天明(1781~1789年)が天災続きだったことはすでに述べたが、特に1782(天明2)年から6年余り続いた天明の飢饉、1783(天明3)年の浅間山の噴火は大きな被害をもたらした。
ともに蔦重が吉原から日本橋通油町に拠点を移し、「狂歌ブーム元年」を起こして登り坂を上がり始めた頃である。
飢饉によって農作物の収穫は激減し、食糧不足に物価高騰、それを受けた一揆や打ちこわしが頻発した。浅間山の噴火は江戸時代における最大規模の火山噴火で、火山灰は関東一円に降り注ぎ、数十センチ単位で降り積もった。
しかもこれが利根川や吾妻川の川底に蓄積し水位が上昇、1786(天明6)年には利根川流域で大規模な洪水が発生している(天明の大水害)。被害は死者1624人、流出家屋1151戸、倒壊家屋130戸余り)とされている。
そのあおりで、完成していた手賀沼干拓地は堤防が流され、新田に大きな被害が及んだほか、印旛沼も洪水で工事の遅延・中止を余儀なくされた。意次肝いりの干拓事業は、大きく傾いていったのである。
天災はこの2つだけではない。日向灘大地震(1769(明和6)年)、大干ばつ(1770(明和7~8年)、明和の大火(1772(明和9・安永元)年)、桜島噴火(1779(安永8)年)……当然、一般市民の不安やストレス、怒りの矛先は、意次本人に向かう。
浅間山噴火の翌年、1784(天明4)年3月24日の夕方、それは起こった。(つづく)
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