狂歌師2強の和解のため蔦重が使った「日本美術史上の大物」
連載•小説
2025/05/30
狂歌ブーム元年となった1783(天明3)年当時、三大狂歌師と呼ばれていたのが四方赤良のほか唐衣橘州(からころもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)の3人。このうち四方と橘州がその作風の違いから厳しく対立していた。貴族風の温和で雅な作風の橘州は、江戸っ子らしい機智に富んだ赤良のそれを公然と批判した。
それはお互いの狂歌連というサロンどうしの対立にも波及する。赤良・菅江編『万載狂歌集』と並ぶ『若葉集』は橘州が編さんしているが、赤良は意図的に編者から外されている。対立の根はそれだけ深かったのだ。
この赤良・橘州の間を取り持ったのが、他ならぬ蔦重だった。
1785(天明5)年、蔦重は狂歌本を次々と世に出す。まず『故混馬鹿集』――無論、『古今和歌集』のパロディ――が先の『若葉集』『万載狂歌集』と並び称されるほどの大ヒットとなったが、重要なのは次の『狂歌評判/俳優風(わざおぎぶり)』だ。『俳優風』に掲載する狂歌の選者に菅江だけでなく犬猿の仲だった赤良、橘州の名がいっしょに並んでいるのである。
蔦重が赤良、橘州の仲介役として連れてきたのが、『俳優風』にピックアップされた狂歌師の最高位の称号を得た「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」という狂名を持つ人物だった。
その正体は、何と日本美術史に残る「琳派」の大物、酒井抱一だった。(つづく)
主な参考資料:松木寛著『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』平凡社
TIMES
連載•小説








