2025/02/13
老中首座・松平定信は、徳川の「御三卿」と呼ばれた田安家、一橋家、清水家の三家の筆頭、田安家の七男だった。徳川御三家ならぬ御三卿については、少し説明が必要のようだ。
初代の家康以来、歴代の将軍を輩出してきた徳川将軍家は、7代家継でいったん途絶えている。5歳で襲名した家継が、わずか3年後に夭折したためだ。そこで生きたのが、いわゆる徳川御三家――紀州家、尾張家、水戸家――だった。
男11人、女5人の子をつくった家康が、九男義直、十男頼宣(よりのぶ)、末子頼房をそれぞれ尾張、紀州、水戸の三家の当主としたのが御三家の始まりである。本家の血が絶えたときの保険のような役回りだ。
8代将軍の座は、御三家筆頭の尾張徳川家・宗春が最有力候補だったが、政争の末に1716(正徳6)年、紀州徳川家の四男・吉宗が徳川宗家に養子入りしてその座に就いた。
その吉宗が新たに設けたのが御三卿だ。御三家に倣って後継の血筋にかける保険を増やした格好だが、屋敷は江戸城内、領地も幕府から与えられたもの。御三家よりも格は下だった。
ところが10代家治の死後――つまり意次の失脚後、どういうわけか11代以降は格下のはずの御三卿の一角・一橋家が将軍の座を独占していく。大河『べらぼう』の時代背景である田沼の時代から定信の時代への移行を見るとき、ここが大きなポイントとなるようだ。
ざっくり言うと、一橋家にとって定信は邪魔な存在だった。『べらぼう』劇中で、定信の兄・治察の死去で田安家が危うくなったにも関わらず、定信が陸奥白河藩の松平家に無理やり養子に出された理由がそこにある。(つづく)
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