2025/02/27
1750(寛延3)年3月、江戸の書物屋仲間3組が行った寄合(会議)の席上で「重板は仕方ないが、類板禁止の申し合わせは廃止すべき」と強硬に主張する者が現われ、寄合が大混乱した。
言い出したのは3組の中の南町という1組だが、他の2組からも同調者が出て多数派となる。書物屋仲間の面々はその勢いのまま、類板OKとする法令を出すよう江戸町奉行に訴え出たのだ。
内容は、「百人一首でも編者が工夫を凝らしたものならパクリではないはず。なのに京都の格式などと勝手なことばかり言って首を縦に振らない者たちがいる」「上方の者たちが江戸の出版を滞らせるのは我慢ならない」等々。
実は、これは江戸の書商による京都・大阪への反乱だった。江戸は長らく京都の大手書商の独占市場。街中には京都の書商の出店まで存在し、江戸の版元が許可を得て販売する京都の書物も少なくなかった。しかしいつまでも風下に置かれては……というわけだ。
当時の南組のメンバー16名の中には書物問屋の名門・須原屋茂兵衛とその暖簾分けの面々のほか、大河『べらぼう』ではお馴染みの鱗形屋孫兵衛の先代と思しき名も見える。
上方の書店からも応援が駆け付け、結局は江戸側の敗訴に終わるのだが、ここから江戸の版元の出版点数が急伸する。1750年代後半には出版点数が京都・大阪の合計を追い抜き、天災続きの天明期(1781~1789年)を経た寛政期には、江戸が上方を完全に追い越してしまった。
江戸文化の中心が上方から人口100万人都市・江戸に移った証左であろう。言うまでもなく、その重要な立役者が蔦重だった。(つづく)
主な参考文献:今田祥三『江戸の本屋さん』平凡社
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