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出版プロデューサー・蔦重のデビュー作『一目千本』
出版プロデューサー・蔦重のデビュー作『一目千本』

 耕書堂の開店から2年経った1774(安永3)年7月、数え25歳の蔦重(蔦屋重三郎)は初めて自ら企画した出版物を世に出す。それが遊女評判記『一目千本』だ。上下2巻、計約70ページある、蔦重の悲願である吉原の客寄せのツールの一つであろう。   一般の書店の店頭には並べず、もっぱら遊女ら吉原遊郭の住人が馴染みの客相手に与える豪華なギフトとしてあつらえたものと言われ、その資金を遊郭内の妓楼主や遊女たちから集めたという。   『一目千本』は遊女たちの姿をそのまま図録としたものではない。。遊女たちを、各々のキャラクターに合わせた花に見立てたのだ。当時江戸で流行していた生け花が何らかのヒントとなったと思われる。   その花の絵を担当したのは北尾重政。北尾派と呼ばれた浮世絵の流派の祖で、蔦重の11歳年上。当時の浮世絵界の重鎮である。20代ルーキーのデビュー作にしては出色の人選だが、これには『べらぼう』のストーリーとは異なり、鱗形屋孫兵衛が重政を紹介したとも言われている。   『べらぼう』劇中では、蔦重の養母である駿河屋の女将がページごとの生け花の絵とそこに添えた遊女の名を見比べて「あの子(蔦重)は、誰よりもこの街を見てんだねえ」としみじみ語るシーンがあったが、それぞれの遊女の見立ては、描いた重政や妓楼の主、遊女本人からのリクエストもありつつ、最終的には蔦重が決めたと思われる。貸本を通じて遊郭の隅々まで知り尽くした蔦重ならではの成果だった。   ゼロから企画し、資金と人材を集めて製作する出版プロデューサー・蔦重の初仕事だった。(つづく)

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2025.01.28

蔦重のビジネスの飛躍につながった理由とは
蔦重のビジネスの飛躍につながった理由とは

 他所に客を取られて窮地にあった吉原を「何とかする」ために、蔦重(蔦屋重三郎)は奔走する。   20代前半の蔦重が最初に手掛けたビジネスは貸本屋だった。火事の多かった江戸では、身近な物品でもすぐに焼失するリスクがあるので自費では購入せず。損料(そんりょう)屋と呼ばれたレンタル店で鍋釜や晴れ着などを借りるのが一般的だった。   書籍もその例外ではなかった。もっとも冊子を並べた店舗に客を呼ぶのではなく、注文を受けた書籍数冊を、店側が顧客宅に持参して貸し出すスタイルだったという。   18世紀後半当時の江戸住人の識字率について明確な数字は残されていないようだが、その約90年後、幕末を迎える頃は男性の40~50%、女性15%が読み書き算盤が出来た、と当時の西欧から見ても引けを取らない水準だったとの研究もある。   蔦重の貸し出し先の多くは、言うまでもなく吉原の住人――妓楼の主や女将、そして遊女たちだった。高位の武士や裕福な商人も多かった吉原では、その相手をする遊女たちにも芸事のみならず相応の教養が求められた。   御用聞きとして彼・彼女たちと親しくしていくうちに、妓楼ごとの遊女の名前と顏、性格から趣味嗜好、遊女どうしの仲の良しあしまで自然と判ってくるし、その落籍、帰郷や新入りの情報も手に入るようになる。貸し借りや頼み事を通じて深く関わった相手も。何より、蔦重本人の人となりは吉原中に知られることになったろう。   知らず知らずのうちに、蔦重は吉原に根を張る強固なネットワークを築いていたのだ。これが後々のビジネスに大きく役立つことになる。(つづく)

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2025.01.23

街道の宿場町「飯盛り女」が吉原の客を奪った
街道の宿場町「飯盛り女」が吉原の客を奪った

吉原の競争相手は、岡場所だけではない。日光街道を除く主要4街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道)の江戸の出入り口に当たる宿場町もまた、遊女の集まる場所だった。『べらぼう』の劇中、田沼意次に「宿場を栄えさせるのは何だ?」と問われた蔦重が「女とバクチです」と応じた重要なポイントである。 幕府は「飯盛女」と呼ばれる女性を、そこの旅籠1軒につき2人置くことを許可した。宿場の奉公人という名目で客と食事をし、その後に同衾する女性のことである。宿場では幕府の書状や荷物を取り次ぐのに人足や馬の経費がかかるため、それを補っていた。 品川宿は日本橋から始まる東海道の最初の宿場町。実は格式が高く、揚げ代は4ランク(上から大見世、中見世、小見世、切見世)ある吉原の遊女の小見世より高額だったという。最盛期には500人もの飯盛女がいた。吉原のガイドブック『吉原細見』に倣った『品川細見』も発行されたという。 甲州街道の最初の宿場が内藤新宿、四谷新宿とも言い、現在の新宿1~3丁目付近の新宿通り沿いに旅籠が並んでいた。最盛期は品川並みの500人もの飯盛女を抱える隆盛ぶりだったという。同様に奥州街道には千住、中山道には板橋が同じ役割を果たした。いずれも現在のその街の繁華街などにその名残を残していると言えよう。 岡場所に宿場町。こうした安価で地の利もある競争相手に、18世紀後半の吉原は押され気味だった。吉原で生まれ育った蔦重は、ある意味一心同体で危機感を共有していたに違いない 「ライバルに押されている吉原の力になろう」と考えた蔦重は、まず何から始めたのか。(つづく)  

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2025.01.16

深川、根津、赤坂…遊郭・吉原のライバル「岡場所」とは
深川、根津、赤坂…遊郭・吉原のライバル「岡場所」とは

 大河ドラマ『べらぼう』の舞台となった1700年代後半唯一の公的な遊女町だった吉原にはあちこちに競争相手がいた。非公認だから取締りの対象だった、というのはタテマエで、高額の遊興費がかかる吉原の得意客はもっぱら高位の武士階級や大手の商人など富裕層。一般の町民や中下級の武士には手が届かない。   加えて、現在の人形町から江東区千束という不便な場所に移った吉原は、営業も夜のみだったことも客を選んだ理由の一つだった。   実は、こうして吉原が取りこぼした需要の受け皿となる場所が、江戸にはいくつもあった。無論、非公認なので幕府は適度に取り締まりはするが、完全には潰さずに黙認し、場所代を徴収していたのだ。   まず、岡場所と呼ばれた非公認の遊女場である。特に盛んだったのは深川。運河が通って舟の便がよかったため、客は舟で出入りし、船頭がしばしば遊女の手配などを行っていた。ちょうど現在の永代橋から富岡八幡宮に至るあたりで、中町、土橋、あひる(佃新地)、新地、石場、櫓下(やぐらした)、裾継(すそつぎ)という深川七場所が知られていた。   客は妓楼ではなく料理屋に遊女を呼び出し、ひとしきり飲み食いした後でその奥座敷に入る。深川の料亭がよく知られているのはその名残であろう。   現在の文京区根津神社の門前(池之端から不忍通り沿い)は、「岡場第一の遊里」根津として栄えた。徳川家の菩提寺・寛永寺の門前で栄えた遊女場・上野山下は、現在のJR上野駅構内から駅前広場近辺だった。また音羽も護国寺の門前町として遊女たちが集まり、赤坂は当時ホタルで有名だった溜池の周辺に御茶屋が並んだという。(つづく)

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2025.01.13

遊郭・吉原は風俗+社交サロン+流行発信地
遊郭・吉原は風俗+社交サロン+流行発信地

 江戸の大遊郭・吉原は、今では妓楼で夜ごと開かれる饗宴や遊女たちの華やかさと、それとは裏腹な彼女たちの境遇の悲惨さの対比に注目が集まるが、実際の吉原は、現在の新宿・歌舞伎町のような風俗の街であったと同時に、渋谷・原宿のような流行の発信元でもあり、銀座・六本木のようなあらゆる身分の人々が出入りする社交場でもあった。 江戸人は性愛に対しては寛容であり、吉原に通う男性は独身・妻帯者を問わず、よほど入れ込んで家財を食いつぶさぬ限り、「ある程度は仕方ない」と世間は許したという。 負債を背負うなどの遊女の遊郭勤めの過酷さは周知の事実であり、「貧しい家族を救うため」の立派な孝行というのが一般的だったという。しかも幼少から遊郭で育った女性でも、遊郭の外の男性とはごく普通に結婚できた。来日したオランダ人が記した記録(『日本誌』1727年)の中で、多くの遊女が一般市民とごく普通に結婚し、教育を受けていれば後ろ指を指されることなく一般家庭に入っていることへの驚きを記している。 一方で遊女たちは、現在の芸能人と同様に江戸市民に知られる存在であり、特にその容姿・教養を兼ね備えたトップスターである花魁が大勢の従者とともに水茶屋に客を迎えに行く様は「花魁道中」と呼ばれ、見物人も多かった。その折の髪型や華麗な服装、アクセサリーが流行の先端として江戸の婦人たちに真似されたり、出身地を隠すための「ありんす言葉」が市中で流行ったりした。 もっとも、蔦重がまだ20歳そこそこの若僧だった頃、実は吉原は危機的状況に陥っていたという。(つづく) ✴︎主な参考文献: 松木寛著『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社 安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン

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2025.01.09

“江戸のメディア王”蔦屋重三郎の原点は大遊郭・吉原
“江戸のメディア王”蔦屋重三郎の原点は大遊郭・吉原

 2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の初回が1月5日㈰に総合テレビ地上波でオンエアされた。平安時代中期の貴族を扱った2024年『光る君へ』に続き、歴史上の大きな戦とは無縁の江戸中期から後期、治世者が老中・田沼意次から老中筆頭・松平定信へと入れ替わる前後の時代を扱っている。 主人公は戯作・狂歌・浮世絵などの様々なヒット作のプロデュースで名を成した‶江戸の出版王″蔦屋重三郎(以下、蔦重)。過去の大河ドラマの主役級のような誰もが知る英雄・武将ではないが、その墓碑銘に「士気英邁にして、細節を修めず、人と接するに信を以てす」とある。細部にこだわらぬ器の大きな人物だったことが推察できる。 このドラマの主要な舞台の一つが江戸の大遊郭・吉原だ。1750(寛延3)年に吉原で生まれた蔦重(本名・柯理(からまる))は幼くして両親が離婚、7歳のとき吉原の商家・喜多川氏に養子入りする(その屋号が「蔦屋」。現在、蔦屋書店を経営するCCC=カルチャーコンビニエンスクラブ創業者との血縁関係はない)。 この特殊な環境下で育った蔦重は、20歳を過ぎた頃に吉原大門の入り口付近に耕書堂という書店を出店する。そこで販売したのが『吉原細見』。妓楼や揚屋(ともに置屋に属する遊女たちを呼んで遊ぶ場所)、引手茶屋(遊女を呼ぶ客が待機する場)、遊女の名を詳しく記した小冊子。要はガイドブックだった。これが出版ビジネスにおける蔦重のスタートラインである。 『細見』の版元は、江戸ナンバーワンの地本問屋・鱗形屋孫兵衛。蔦重はやがて孫兵衛の下で『細見』の編集にも携わるようになり、出版ビジネスを学んでゆく。(つづく) ✴︎主な参考文献: 松木寛著『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社 安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン

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2025.01.06

武士は皇族・貴族の「血」と地方豪族の「力」のハイブリッド
武士は皇族・貴族の「血」と地方豪族の「力」のハイブリッド

 平安前期、地方では治安の乱れから大規模な群盗が頻繁に発生した。889(寛平元)年の物部氏永の乱がその代表例で、危機感を覚えた朝廷はその翌890(寛平2)年、天皇の親衛隊組織として全国から弓術・馬術に優れた者たちを集め、「滝口武士」と名付けた。   これが武士という名の階級の最初の形とされている。もっとも、弓馬や刀など武器を扱う術は京で一から教えられたわけではなく、もともと身に付けていた者たちだ。彼らの出身母体はどこなのだろうか?   当時、皇族や上位貴族(王臣家)は国の律令制度を無視して地方の利権を漁っていた。彼らは中下位の貴族を吸収し、各地方で郡司の座にいた富裕豪族と血縁関係を結び、武装して「家」的な集団を形成していった。   こうして地方豪族の武力と、都の貴族の血筋が結合した武装集団が単なる荒くれではない、独特のモラルと知性を併せ持った「武士」のルーツと言っていいだろう。   皇族から降りて常陸国(現茨城県)で一勢力となった桓武平氏の祖・平高望(たかもち)がその典型。将門を倒した貞盛、刀伊と戦った為賢はその系譜にある。   この集団から抜擢され、京に住む皇族・貴族の警護役としてフィードバックされたのが滝口武士である。将門・純友の乱もその‶選考″の場となった   京の都の雅な世界を描いた『光る君へ』。武士の台頭を暗示する「嵐が来る」というラストのセリフが話題となったが、京から一歩外に出れば、実はずっと前から「嵐」に向けての地殻変動が始まっていたのだ。刀伊撃退はその一端を垣間見せた大事件だった。   ✳︎主な参考文献 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』ちくま新書   〃  『平安王朝と源平武士』   〃  

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2025.01.02

武者ルーツは将門・純友の乱
武者ルーツは将門・純友の乱

 大宰権帥・藤原隆家とともに京から派遣され、刀伊を撃退した「無止(やんごとなき)武者」の面々。『光る君へ』の劇中では一見、源平争乱を連想させる鎧兜を身につけて奮戦していたが、オンエア中のSNS上では、詳しい人から「鎧の下に、中世風の直垂(ひたたれ)ではなく水干(すいかん、普段着)を着用している」「袴が長い、脛当てがない」との指摘があった。   さらに警固所に詰めている兵士たちが、律令時代を連想させる埴輪のような鎧を着用していることも話題に上った。後の鎌倉期とは異なるこの時代のリアリティを追求するNHK大河製作陣の本気度が伺える。   「無止武者」の面々について詳しく見てみよう。隆家の子とも言われる太宰少弐・藤原蔵規(まさのり)のほか、平為賢(ためかた)という名が見える。為賢は平将門の乱(935(承平5)~941(天慶4)年)で将門を倒した功労者、平貞盛の血筋(弟・繁盛の孫)である。   もう一人、前少監・大蔵種材(たねき)は、将門の乱と時を同じくして瀬戸内でぼっ発した藤原純友の乱を鎮圧した大蔵春実(はるざね)の孫。さらに一人、平致行(むねみつ)も将門の乱を鎮めた一人、平公雅(きみまさ)の一族と言われている。   このように、将門と純友という朝廷を震撼させた2つの乱で戦功を立てた面々の子孫がそのまま朝廷の‶用心棒″となっていたことがわかる。   実は、そんな彼らの拠点はもともと京ではなかった。例えば平為賢の先祖・高望の拠点が上総国(現・茨城県)であるように、当時混乱の極みにあった地方から集められた存在だった。(つづく)   ✴︎主な参考文献 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』ちくま新書   〃  『平安王朝と源平武士』   〃  

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2024.12.30

京の都で集団騒乱を繰り返す‶やんごとなき″貴族たち
京の都で集団騒乱を繰り返す‶やんごとなき″貴族たち

そもそも当時の貴族は、京の都で頻繁に徒党を組んでは騒乱事件を起こしており、些細なことをきっかけにヒートアップして人を殺すことも珍しくなかった。NHK大河ドラマ『光る君へ』では穏健に描かれた藤原道長も例外ではなく、官僚の採用試験で便宜を図った友人が不合格となったことに怒り、従者に命じて拉致した試験官を縛ったまま都を歩かせてさらし者にしたという。 刀伊撃退の立役者・藤原隆家もそんな貴族の一人だった。979(天元2)年に生まれ、常に行動を共にした兄・伊周(これちか)とともに関白・藤原道隆を父とする名門出身。しかし道隆が早逝したため、その弟(兼家の三男、異母兄弟を入れて五男)・藤原道長と伊周は最高権力者の座を巡って激しく争う。隆家も含めたお互いの従者たちがしばしば衝突、死者が出る騒ぎもあった。 そんな権力闘争のさなか、この兄弟は996(長徳2)年、花山法皇とその周辺との間で乱闘を起こし、法皇の従者2人を斬首しただけでなく、隆家が法皇本人の袖を矢で射抜く大事件を起こす(長徳の変)。二人は失脚し、地方に左遷された。その後恩赦で中央に復帰するも、1010(寛弘7)年に伊周は病死。道長との権力闘争はほぼ勝負がついた。 その後眼病を患った隆家は、眼病の名医がいるという筑前国大宰府に、その長官である大宰権帥として赴任することを希望。1014(長和3)年11月に念願かなって筑前国に下り、大宰権帥の座に就いた後は打って変わって善政を敷き、地元・九州の豪族たちも心服したほどだという。1019(寛仁3)年の刀伊入寇は、そんなときに起こった大事件だった。 もっとも、この隆家という武闘派貴族が武士の始まりというわけではもちろんない。「武士」という階級の始まりに関わってくるのは、隆家本人よりもむしろ隆家と行動を共にした「武者」たちだった。(つづく)   ※主な参考文献 関幸彦『刀伊の入寇』中公新書

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2024.12.26

元寇の255年前、外敵を撃破した武闘派貴族たち
元寇の255年前、外敵を撃破した武闘派貴族たち

筑前国・大宰府は当時、大陸や朝鮮半島との間の軍事・外交と九州全土の統治を担っており、隆家は九州の豪族たちに緊急で召集をかけ、同時に朝廷に向け、早馬で矢継ぎ早に解文(げぶみ、上申書)を送り、現地の状況を報告。自ら軍を率いて警固所に詰めている。 突然の来襲であったことに加え、守るべき範囲が北九州沿岸の広い地域に渡ったため、すぐには相応の兵力を集められず、当初は上陸先の地元豪族が応戦し食い止めていた。一方の刀伊軍は8日に博多湾内の能古島を攻略し、そこを拠点に数日間、方々へ軍を展開した。 しかしそこから2日間に渡る大風で戦闘が中断され、その間に隆家を始め京から大宰府に赴任していた「無止(やんごとなき=高貴な)武者」と在地豪族たちが筑前早良郡、志摩郡など沿岸部で陣容を整え、12日夕方に上陸した刀伊軍を撃退、13日には肥前国松浦を襲撃(『光る君へ』劇中ではここが描かれた)した刀伊を撃退、対馬まで追撃しついに追い払った。 当時の記録では、死者364人、捕虜となった者1289人、牛馬380頭が殺害・略奪されたが、一貫して隆家の指揮の見事さが際立っているという。敗走する刀伊軍を対馬まで追撃するも、深追いして当時恐れられていた新羅の領海まで踏み込むことを避けた判断も明快だった。 貴族といえば、TVや映画の劇中では‶体育会系″の武士と対比する形で、‶文科系″でなよなよしく、しかし権謀術数に長けた存在として描かれることが多かった。しかし、突然の外敵の襲来にこれだけ対応できた貴族がいたことは、平安貴族に対する一般的なイメージを少々改めねばならないかもしれない。 実は、都の貴族は決して軟弱な存在ではなかったのである。(つづく)   ※主な参考文献 関幸彦『刀伊の入寇』中公新書

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2024.12.23

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