連載•小説

連載•小説

ポスティングシステムは日本にとって不平等ルール
ポスティングシステムは日本にとって不平等ルール

もう不平等ポスティングシステムではメジャーに行かなくなるかも? 日本選手は売り手市場  ロサンゼルス・ドジャースの佐々木朗希投手が2月21日(現地)、自身のインスタグラムで一般女性との結婚を発表した。この結婚は日米で大きな話題を呼んだが、その報道は野球大国ではないスペインにまで広がっている。すでに佐々木投手はメジャーな存在として注目されているわけだが、実はメジャーリーガーとして契約していない。  佐々木投手の米大リーグ移籍は、ポスティングシステム(以下:ポスティング)という制度を利用しての移籍だ。この制度は日米の球団ビジネスの観点から実に不平等なルールだ。  現行のメジャーの労使協定では、ロッテはわずかな譲渡金しか受け取れない。これがポスティングの「25歳ルール」というものだ。ちなみにソフトバンクはポスティングによる移籍を容認していない。「25歳ルール」は、メジャー球団が25歳未満の海外選手を獲得する場合、契約金などの総額を年間500万ドル(約7億6000万円)程度に抑制することを定めている。そのため選手は1年目からメジャー昇格が可能なものの入団時にはマイナー契約しか結ぶことができない。過去日本人選手では、大谷翔平選手(現ドジャース)が2017年オフに日本ハムからポスティングでエンゼルスに移籍したが、彼は「25歳ルール」の対象となり、契約金が231万5000ドル(当時約2億6000万円)と大抑制された。  オリックスからドジャースへポスティングで移籍した山本由伸投手は25歳に達していたため、ルールの適用外で、12年総額3億2500万ドル(当時約465億円)の大型契約を結んだ。当然オリックスは、契約金の最大25%よりは下げられたが、それでも72億円を懐にした。ロッテは3億円に満たず、しかも結婚での一儲けもフイになった。ポスティングは過去、日米球界による協議でルールの改変が行われてきたが、メジャー側は、日本人選手の移籍志向が強いことを逆手に取りメジャー側に有利になるような変更を強いている。もともと「25歳ルール」は、中南米の若手選手の“青田買い”の防止が目的だった。ならば日本からのポスティングによる移籍は適用から外すことを求めるべきではないか。また25歳未満の移籍は容認しないという12球団統一の“選手(専守)防衛ルール”の制定も検討すべき時期に来ている。いまや日本球界にはメジャー垂涎の選手がゴロゴロいる売り手市場になっているのだから。  

連載•小説

2025.03.04

出版点数で京都・大阪を逆転!江戸文化の中心が江戸になった
出版点数で京都・大阪を逆転!江戸文化の中心が江戸になった

 1750(寛延3)年3月、江戸の書物屋仲間3組が行った寄合(会議)の席上で「重板は仕方ないが、類板禁止の申し合わせは廃止すべき」と強硬に主張する者が現われ、寄合が大混乱した。   言い出したのは3組の中の南町という1組だが、他の2組からも同調者が出て多数派となる。書物屋仲間の面々はその勢いのまま、類板OKとする法令を出すよう江戸町奉行に訴え出たのだ。   内容は、「百人一首でも編者が工夫を凝らしたものならパクリではないはず。なのに京都の格式などと勝手なことばかり言って首を縦に振らない者たちがいる」「上方の者たちが江戸の出版を滞らせるのは我慢ならない」等々。   実は、これは江戸の書商による京都・大阪への反乱だった。江戸は長らく京都の大手書商の独占市場。街中には京都の書商の出店まで存在し、江戸の版元が許可を得て販売する京都の書物も少なくなかった。しかしいつまでも風下に置かれては……というわけだ。   当時の南組のメンバー16名の中には書物問屋の名門・須原屋茂兵衛とその暖簾分けの面々のほか、大河『べらぼう』ではお馴染みの鱗形屋孫兵衛の先代と思しき名も見える。   上方の書店からも応援が駆け付け、結局は江戸側の敗訴に終わるのだが、ここから江戸の版元の出版点数が急伸する。1750年代後半には出版点数が京都・大阪の合計を追い抜き、天災続きの天明期(1781~1789年)を経た寛政期には、江戸が上方を完全に追い越してしまった。   江戸文化の中心が上方から人口100万人都市・江戸に移った証左であろう。言うまでもなく、その重要な立役者が蔦重だった。(つづく)   主な参考文献:今田祥三『江戸の本屋さん』平凡社

連載•小説

2025.02.27

江戸の出版物を規制する法律は、あの名奉行が作った
江戸の出版物を規制する法律は、あの名奉行が作った

 蔦重の時代から半世紀ほどさかのぼった8代将軍吉宗の時代、1722(享保7)年に出された出版条例は、幕末まで続く出版統制の規準となった。贅沢がはびこると世が乱れる、という発想の下、出版物もその一つとされて取締りの対象となった。   しかし、「出版物は他の物品とは違う」と気付いて、それまでの出版取締令をいったん整理し、再構成したのが当時の江戸町奉行・大岡越前守だった。今もその名が残る名奉行は、行政官僚としての手腕も高く評価されている。   その内容は、 ① (幕府に都合の悪い)異説を唱える出版物を出すな ② 好色本は出すな ③ 先祖・家系について書いてはいけない ④ 必ず巻末に出版社・著者の名前を入れよ ⑤ 徳川家・幕府に関することを書いてはならない   …の5カ条。さらに、世の中で起きた事件(心中事件など)についての出版の規制を改めて強化し、翌1723(享保8)年には心中事件の脚本化・上演が禁じられた(『曽根崎心中』など事件ものを執拗に出し続けた近松門左衛門が標的だった)。   この条例を出す前に、大岡越前は「書物問屋仲間」の結成を促した。   以前から重板(パクり)、類板(同じ内容だが若干手を加えた出版物)を抑えるために仲間内で集まる組織はあった。幕府は1716(享保元)年にそれを公認し、重版・類板を正式に禁じると同時に行事(問屋仲間の世話役)に命じてこの条例を守るよう徹底させた。   京都に続き大阪、江戸の出版界でもこの問屋仲間が形成されるのだが、1750(寛延3)年、上方の問屋仲間と、一段低く見られていた江戸のそれとの間で抗争が起こる。(つづく)   主な参考文献:今田祥三『江戸の本屋さん』平凡社

連載•小説

2025.02.25

パクりで処罰……京都・大阪に敵わなかった江戸の出版業界
パクりで処罰……京都・大阪に敵わなかった江戸の出版業界

 再び出版界に話を戻す。地本問屋の老舗・鱗形屋孫兵衛の手代が、大阪の版元・柏原与左衛門・村上伊兵衛出版が出したスグレモノの字引『早引節用集』を『新増節用集』と改題し、無断で販売していたことが露見した。1775(安永4)年のことである。   手代は家財欠所(全財産の没収)、十里四方追放(日本橋から東西南北約20km四方に生涯立ち入り禁止)、孫兵衛本人も罰金12貫文(10~13万円)の処分を受けている。   実は当時、京都・大阪の出版物はその点数で江戸のそれを圧倒していた。出版業のそもそものルーツは京都である。飛鳥時代、仏教・製紙業とともに中国大陸から入ってきた出版業は、平安・鎌倉期を経て室町期、応仁の乱で京都が荒廃したのを機に文化人や木版職人らが全国に拡散したという。   江戸期に入り、1682(天和2)年の大阪商人・井原西鶴が著した『好色一代男』の大ヒットがきっかけで大阪に新興の出版業者が増えた。いわゆる江戸文化はもっぱら江戸の街で栄えたと錯覚しがちだが、江戸中期の元禄文化の担い手だった西鶴や近松門左衛門の活動拠点は、江戸ではなく上方――大阪・京都だったのだ。   当時、江戸の新興版元は、大阪・京都の老舗版元の出版物を許可を得て販売しており、江戸オリジナルは未発達だった。「地本」という呼び名は「地酒」と同様、「地方」「格下」という意味合いが込められていたのである。   鱗形屋の事件も、そうした東西の力関係の副産物と言えなくもない。しかしこの時期、つまり鱗形屋が没落し、蔦重がのし上がっていった頃から、江戸の出版物は爆発的な伸びで上方を猛追するのである。(つづく)    

連載•小説

2025.02.20

幕府を操る「人形遣い」一橋家当主・治済とは何者か
幕府を操る「人形遣い」一橋家当主・治済とは何者か

 松平定信は1774(安永3)年、17歳で陸奥国白河藩松平家に養子縁組された。嫡男・治察の死で存続の危機にあった田安家の抵抗は押し切られた。以後14年の間、田安家の当主は空位のままだった。なぜこんな‶人事″が行われたのだろうか。   定信が英才をうたわれたとはいえ、11代将軍・家治には嫡男の竹千代――後の家基がいた。当時13歳。快活で鷹狩を好む文武両道の俊才だったという。家治から全幅の信頼を得ていた意次にとっても、家基は末永く権力を握るのに好都合な存在だった。   ところが、その家基が1779(安永8)年、突然落命する。享年16。名前に由緒ある「家」の字を冠しながら将軍の座に就けなかった唯一の跡取りとなった。   問題は家基の死因が急病なのか事故なのか、現在に至るまではっきりしないことだ。意次による毒殺の噂も流れたが、意次と家治との親密度を見ると考えづらい。   一つ言えるのは、家基の死によって一橋家の当主・治済の嫡男・豊千代――後の家斉が将軍の座に就く道が開けたことだ。ついでに言うと、田安家には治済の五男・斉匡(なりまさ)が養子として送り込まれ、実質的に治済の影響下に入ることになる。   一橋治済とは何者なのか。大河『べらぼう』第2話でそれが暗示された。田安、一橋、清水の御三卿の面々が豊千代の生誕を祝う宴席で、2人の人物が仮面を被って人形を操る。一人は意次、もう一人が治済だった。   治済は「傀儡(かいらい)師にでもなるか」と皆を笑わせるのだが、治済は確かに傀儡師――人形遣いとなって幕閣を裏から操る存在となっていく。(つづく)

連載•小説

2025.02.17

徳川将軍の血筋の‶保険″御三家と御三卿の違い
徳川将軍の血筋の‶保険″御三家と御三卿の違い

 老中首座・松平定信は、徳川の「御三卿」と呼ばれた田安家、一橋家、清水家の三家の筆頭、田安家の七男だった。徳川御三家ならぬ御三卿については、少し説明が必要のようだ。 初代の家康以来、歴代の将軍を輩出してきた徳川将軍家は、7代家継でいったん途絶えている。5歳で襲名した家継が、わずか3年後に夭折したためだ。そこで生きたのが、いわゆる徳川御三家――紀州家、尾張家、水戸家――だった。 男11人、女5人の子をつくった家康が、九男義直、十男頼宣(よりのぶ)、末子頼房をそれぞれ尾張、紀州、水戸の三家の当主としたのが御三家の始まりである。本家の血が絶えたときの保険のような役回りだ。 8代将軍の座は、御三家筆頭の尾張徳川家・宗春が最有力候補だったが、政争の末に1716(正徳6)年、紀州徳川家の四男・吉宗が徳川宗家に養子入りしてその座に就いた。 その吉宗が新たに設けたのが御三卿だ。御三家に倣って後継の血筋にかける保険を増やした格好だが、屋敷は江戸城内、領地も幕府から与えられたもの。御三家よりも格は下だった。 ところが10代家治の死後――つまり意次の失脚後、どういうわけか11代以降は格下のはずの御三卿の一角・一橋家が将軍の座を独占していく。大河『べらぼう』の時代背景である田沼の時代から定信の時代への移行を見るとき、ここが大きなポイントとなるようだ。 ざっくり言うと、一橋家にとって定信は邪魔な存在だった。『べらぼう』劇中で、定信の兄・治察の死去で田安家が危うくなったにも関わらず、定信が陸奥白河藩の松平家に無理やり養子に出された理由がそこにある。(つづく)  

連載•小説

2025.02.13

「吉宗の再来」松平定信はなぜ、将軍になれなかったのか
「吉宗の再来」松平定信はなぜ、将軍になれなかったのか

 もう少し教科書をおさらいしよう。田沼意次の時代の終わりは、毎年のように襲い掛かる天災にも後押しされた。1769(明和6)年の日向灘地震、干ばつ(1770~71年)、明和の大火・洪水(1772年)……特に天明の大飢饉(1782~87年)、浅間山の噴火・霜害(1783年)の後は江戸・大阪で打ちこわしが頻発した。   1784(天明4)年、意次の息子・意知が暗殺され、1786(天明6)年8月25日に11代将軍・家治が死去、その2日後に意次は老中の座を辞した。代わって力を得たのが松平定信。養子先の白河松平家(白河藩、現福島県白河市)から実家である御三卿・田安家に呼び戻され、老中首座に就いたのは1787(天明7)年6月だった。   定信は、天明の飢饉でも白河藩下で餓死者を出さなかった腕利き。翌1788(天明8)年から改革に着手し、農村からの人口流出を防ぐ様々な施策を講じたほか、意次の企画した新規事業を潰し、わいろを禁じるなど綱紀粛正を図り、倹約令で幕府や藩の財政難を救済した。   しかし、あまりに厳しい綱紀粛正に辟易した江戸城内、特に大奥から猛反発を食う。民衆の間でも田沼時代を懐かしむ有名な狂歌――白河の清きに魚の住みかねて/もとの濁りの田沼こひしき――が流行する有様。定信は1793(寛政5)年に老中の職を解かれた。   意外に知られていないのが、この期間の将軍家継承の経緯だ。一見、淡々と進められたかに見えて、実は陰険な謀略と流血に塗れていたと言われている。   そもそも松平定信は、老中どころか「吉宗の再来」と呼ばれた英才で、10代将軍の最有力候補だったのだ。なぜ将軍の座に就けなかったのか。(つづく)

連載•小説

2025.02.11

‶暴れん坊″吉宗「殖産興業」路線を受け継いだ意次
‶暴れん坊″吉宗「殖産興業」路線を受け継いだ意次

 田沼意次が辣腕を振るった時代を、いったん歴史の教科書通りに振り返ってみよう。   リアリストだった意次は、テレ朝『暴れん坊将軍』でお馴染みの8代将軍吉宗の「殖産興業」「商業資本利用」路線を継承して、傾きかけた幕府の財政を立て直そうとした。   まず、大坂商人の出資で下総国の利根川水系に当たる印旛沼・多賀沼の干拓に着手した。次いで長崎の貿易において金銀での支払いを控えてその流出を抑え、銅・俵物(俵に詰めて輸出された海産物や米穀)などで代替。金銀は中国・オランダから輸入した。   また、蝦夷地の現地調査を命じてその開発を目指したほか、当時頻繁に日本近海に船が出現していたロシアとの通商の計画を立てていた。その他、銀・銅・真鍮・人参・朱などの専売制や、石炭・硫黄・油を、特定の商人たちに株仲間を組成して扱わせる代わりに冥加金・運上を徴収した。   要は、発展してきた民間の商業資本を幕府が統制することで確実に税収を上げ、財政再建を目指したわけだが、同時に大商人や株仲間から幕府官僚へのわいろが横行。意次自らが受け取るという乱脈ぶりで、半ば公然と受け渡しがされていたという。   ちなみにNHK大河『べらぼう』劇中では蔦屋重三郎=蔦重が地本問屋の株仲間の壁に阻まれて落胆するシーンがあったが、1783(天明3)年、『吉原細見』販売開始から10年後の34歳で日本橋通油町の事本問屋を買い取り、地本問屋の株を手に入れることになる。   ともあれ、政治の腐敗は頂点に達して道徳は退廃し、世相は混乱した…これが長く語られてきた意次のわいろ政治である。(つづく)  

連載•小説

2025.02.08

田沼意次‶わいろ老中″のレッテルは本当なのか?
田沼意次‶わいろ老中″のレッテルは本当なのか?

 蔦重が耕書堂を開いた1772(安永元)年、10代将軍・徳川家治の側用人、田沼意次が江戸幕府の老中に昇格した。老中は10万石以上の譜代大名から将軍の意向および幕閣の推薦などで4~5名選ばれ、そのトップが老中首座となる。当時の首座は意次ではなく、越智松平家3代目の松平武元(たけちか)である。   意次の経歴は異色で、紀州徳川家の四男だった吉宗が8代将軍に就く際、江戸まで連れて行った紀州藩の側用人の中に意次の父で足軽だった意行がいた。意行は旗本に抜擢される。   意次が西丸小姓として仕えた9代家重は、、病弱で吃音のため大奥にこもりがち。そこで家重の側近たちや大奥との意思疎通に、意次は欠かせぬ存在となったようだ。男前であることに加え、贈り物などの心配りが細かく行き届くため、大奥から信頼を得ている。こうして10代家治の絶大な信頼を得ることに成功、側用人から老中に上り詰めたのだった。 意次はここから1786(天明6)年に失脚するまで、老中として辣腕を振るう。   意次について我々がまず思い浮かべるのは、やはり「わいろ」である。歴史の授業でなぜかしつこいほど繰り返された田沼=わいろ。しかし、それには大きな理由がある。当時の意次とその周辺の政治に関する資料がことごとく消失しているのだという。おかげで後から貼られた「わいろ政治家」というレッテルを長年剥がすことができずにいる。   それにも近年は意次についての研究も進み。その人物評が大きく変わってきている。と同時に、当時の政治史の資料を誰が無きものとしたのか、おおよその見当はついているようだ。もちろん、『べらぼう』の劇中にもすでに登場している。(つづく)  

連載•小説

2025.02.06

蔦重流‶ファッションカタログ″が浮世絵の歴史を変えた
蔦重流‶ファッションカタログ″が浮世絵の歴史を変えた

 浮世絵は江戸時代に描かれた当世風――当時の流行や風俗――の絵画全般を指す。もともと色を重ねないモノクロの版画で、その上から手で色を塗る丹絵(橙色)、紅絵(紅色)、漆絵(墨に光沢)が次々と出現した。1740年代には複数の色をズレぬように重ねて摺る技法が出現し、紅・草・黄3色の紅摺絵が登場した。   蔦重が耕書堂を立ち上げる少し前の1765(明和2)年頃、ある版元から絵暦、つまり絵入りのカレンダーが売り出された。これが従来のものより格段に美しい多色刷りの美人画で、大きな評判を取った。   絵師は鈴木春信。現在も喜多川歌麿らとともに美人画の代表的な絵師として世界的な人気を誇っている。さらに鳥居清長、歌川豊春、役者絵の鳥居清満などの優れた絵師たちが続々と登場し、この多色刷りの浮世絵は錦絵と呼ばれるようになる。   錦絵に対する人々の驚きは、現在の我々が3DやVRを初めて観たときのそれと似ているかもしれない。単価が安く大量生産・大量消費できる錦絵は、庶民層から富裕層、武士階級と幅広く拡散する一大メディアとなっていく。   これに目を付けた蔦重は、100枚以上の大判の錦絵セット『雛形(ひいながた)若菜初模様』を世に送る。花魁を始め遊女・禿(遊女見習い)たちが最新のデザインの衣服姿を描いた、言わば豪華なファッションカタログ。知る人ぞ知る絵師・礒田湖龍斎の代表作だ。   『雛形若菜』は浮世絵の商業性、芸術性に新たな可能性を見出し、その歴史を変えたと言われる。何より、訪れたことのない人々にまで吉原の視覚的情報を伝える手段――メディアを得たことが、蔦重にとって大きかった。(つづく)

連載•小説

2025.01.30

1 26 27 28 29 30