連載•小説
大声を出して驚くことは滅多にないが、先日あった。ゲンロンカフェというイベントに参加した時のことだ。 俺は物販ブースで自著の小説を売っていたのだが、お客さんになかなか立ち止まって貰えず諦めかけて下を向いていた。そんな時、不意に誰かが近づいて来た。 「いらっしゃいませ~」 俺はファーストフード店ばりのスマイルで顔をあげた、と同時に、「ワッ!」と大声が出てしまった。目の前にいたのは、新垣隆さんだったのだ!佐村河内守のゴーストライター事件でゴーストライターをしていた、あの新垣さんである!聞けば、新垣さんはゲンロンカフェ関係の配信番組をしており、今日はお客さんとして来たそうだ。 「僕が書いた小説です!」 俺は元気いっぱい答えると、新垣さんは 「ご本人が書かれたのですか!一冊下さい」 そうニッコリ笑って本を買って頂いた。俺は新垣さんの 「ご本人が書かれたのですか!」 というフレーズに、今日一番の大声で笑いそうになった。
2025.04.11
大河『べらぼう』劇中では西村まさ彦が演じる西村屋与八も、地本問屋の大手。実は、鱗形屋孫兵衛――片岡愛之助演じる孫兵衛本人か先代かは不明――の次男であり、西村屋に婿養子として入ったとされる。宝暦年間(1751年~1764年)から錦絵を手掛け始め、美人画の名手で錦絵の先駆者・鈴木春信ら著名な絵師を抱えて活躍した。 蔦重とは当初は足並みをそろえ、正月に初めて着用する着物を吉原の遊女に着せるという趣向で『雛形若菜初模様』を出版。いわばファッションカタログの先駆とも言うべきこの作品はすでに劇中でも登場したが、以後6年間、150点以上が制作された。 その後、蔦重と決別した西村屋は、後世に残るスター絵師・鳥居清長の美人画を手掛け、後に喜多川歌麿、東洲斎写楽らを手掛けた蔦重とはライバル関係となっている。扱うジャンルは重複するが、ベンチャー気質の蔦重と比べるとその商法はオーソドックスで伝統的だったとされている。 すでに述べた鱗形屋孫兵衛についても触れておく。万治年間から浄瑠璃本を刊行していた地本問屋の草分け的存在。安永年間(1772年~1781年)頃までは江戸の地本問屋のトップを張っていた。『吉原細見』や往来物、錦絵や草双紙で一時代を築いたとされている。黄表紙の先駆けとなった『金々先生栄花夢』についてはすでに触れた。 しかしその後はすでに記した通り、上方の出版物の無断コピーなどの事件に連座し、次第に衰亡していった。(つづく) 主な参考書籍:鈴木俊幸『絵草子屋 江戸の浮世絵ショップ』平凡社
2025.04.10
【侍タイムスリッパー】をようやく観た 話題の映画をいつ観るべきなのか迷う。劇場公開時に行けばよいのだが、見逃してもすぐにサブスクで観られるという安心感からか、気付けば公開が終わっている。この数年の映画あるあるかもしれない。そんな中、俺はようやく配信で『侍タイムスリッパー』を観た。 日本アカデミー賞最優秀作品賞という正真正銘の話題作である。物語は、侍が現代にタイムスリップして時代劇の斬られ役で成功していくというコメディだ。てっきり、ドタバタ喜劇(古い言い方!)かと思って見始めたら、フリとオチが見事にききながら進んでいく為、俺は視聴覚釘付けになり、気付けば前のめりになって、ラストでは涙が出そうになった。 ようやく話題作を観た俺は、友達から「もう観たの!」と言われた。そうか、配信全盛の今、俺はまだ早い方なのか!去年公開された映画だったが、俺は思わず友達に言った。「今年一番の映画だった!」 なんだか、俺がタイムスリッパーのようになっていた。
2025.04.08
1783(天明3)年、蔦重は丸屋小兵衛の店と蔵を入手し、日本橋通油町に進出する。日本橋は言うまでもなく、五街道の起点であり、日本橋川を始めとした掘割が縦横に張り巡らされ、後に「東洋のヴェニス」と称されるほど水上交通が発達していた。要は物流・商業の中心地だったわけだ。 様々な商品の問屋が立ち並ぶ問屋街が形成され、魚介類を競り売りする魚河岸(築地に移転するまでは日本橋の河岸にあった)や呉服店が繁盛した。大名屋敷や蔵屋敷など武士階級も在住。豪華な江戸風の町屋が軒を連ね、黒漆喰や鬼瓦などで装飾された建物が立ち並んだという。 無論、文化の一大拠点でもあった。その中核となったのは、人形町の芝居小屋の江戸歌舞伎もさることながら、やはり書物出版や貸本業だった。『べらぼう』劇中ではもっぱら既得権益を振りかざす悪役として蔦重・吉原勢と対立する書物問屋・地本問屋も、この日本橋に軒を連ねていた。各々のメンバーのプロフィールを抑えておこう。 劇中で風間俊介演じる鶴屋喜右衛門は日本橋の大伝馬町に店を構える地本問屋の代表格であり、明治まで約240年続いた老舗である。京都に本家があり、江戸進出は万治年間(1658年~1661年)。草双紙、錦絵を手掛ける蔦重のライバル的存在だった。浮世絵の祖・菱川師宣や鳥居清倍に地誌や漆絵を描かせたり、後の錦絵では勝川春英、北尾松美、歌川国貞、喜多川歌麿など江戸期を代表する浮世絵師の名前も。 ずっと後の話だが、1833(天保4)年に歌川広重『東海道五十三次』55枚組の版元もここである。(つづく)
2025.04.07
耳を付ける その2 さて、年齢にふさわしい「補聴器」短歌の最終回です。 耳元で誰かつぶやく 振り向けば十メートルも離れていたよ 向こう側の人の会話も拾っちゃう「プレゼンうまくやれるといいね」 補聴器の電池が切れる世界が切れる いともたやすく失う社会 耳をつけて朝が始まる あらためて積極的に生きようと思う 存外に問う人なきは気遣いか 笑ってネタにしてほしいのに 虫をつぶす そのとき虫は聞いただろう自分の命を奪う轟音 この最後の歌ができたので、このシリーズを発表してもいいかなという気になった。 それまでの十数首とガラリと視点を変えた。 どうでしょうか? 来週は、趣向を変えて、初恋ネタででもいこうかと考えています。
2025.04.07
弥助に発する黒人奴隷問題は慰安婦問題捏造に類する さて、吉田清治という人物を覚えているだろうか。そう、『朝鮮人慰安婦と日本人』という書作を世に出した人物である。吉田氏は済州島など朝鮮での「慰安婦狩り」の当事者として多くの証言を作品として残すだけでなく、多数の戦後補償の裁判や講演会で証言し、新聞や雑誌での報道に利用されてきた。朝日新聞は都合18回、北海道新聞やしんぶん赤旗でも複数回にわたり吉田氏の証言が記事の中で装用されている。その結果、韓国ではいるはずのない強制連行されたと宣う元慰安婦が現れて日本政府への賠償訴訟を提起するに至っている。1992年の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書が証拠として採用されている。2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも吉田証言が事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた。2012年9月5日に朝鮮日報は、社説で吉田氏の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として強制連行の証拠であるとしている。吉田氏の著作が朝日新聞のみならず韓国報道機関や裁判所までが事実を裏付ける証拠として扱うに至っている。ところがである。この吉田氏の著作や証言の裏付けはほとんどといって良いほど取れないことが発覚する。韓国国内での調査においても日本国内の調査においても吉田証言に沿うような言質は取れなかった。むしろ、吉田氏の記述や発言を否定する言質ばかりが聞かれる。それだけではない。吉田氏は自身の経歴や養子にした息子の戦死なども虚偽であったことが発覚する。 1983年以降、朝日新聞はすべての吉田氏に関わる記事を取り消し「虚偽の証言を見抜けなかった」として謝罪している。北海道新聞もしんぶん赤旗も同様に記事を取り消した。1996年に週刊新潮のインタビューで吉田氏は「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。」と完全に開き直った発言を残している。問題なのは吉田氏本人が虚偽を認め、新聞社が記事を取り消しても、一度出回った情報は完全に消し去ることは不可能だということ。日本政府による慰安婦の強制連行は実しやかに世界中を駆け巡り日本バッシングのプロパガンダとして利用され続ける。旧日本軍慰安婦の少女時代をモチーフとして作成された慰安婦像は韓国ソウルの日本大使館前に設置されて以降、アメリカ合衆国・カナダ・オーストラリア・中華人民共和国・中華民国・ドイツに、次々と設置されている。現在では韓国国内に100か所以上も設置されている。サンフランシスコに慰安婦像が設置されたことに対して大阪市は抗議して姉妹都市を解消するに至った。独り歩きした虚偽情報に起因する行為が国際的な関係悪化を招いている。 吉田清治という人物が為した証言は虚偽であることが公に明かされたものの、事実ではない情報は未だに消し去られることなく広く認知されたままにある。「群集の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが忘却力は大きい」19世紀のフランスの社会心理学者ル・ボンの作品「群集心理」の一文である。群集の特徴として、物事を深く理解することができないばかりか何もかも瞬く間に忘れてしまうという特徴を指摘している。自分が虚偽の証言に騙されたと理解できない人民は多く、記憶はそのまま放置される。おいてきぼりになった間違った情報を打ち消す手段は多くない。情報を発信することは独りよがりでもできることだが、発信した情報を完全に消し去ることは不可能に近い。そう考えると吉田証言は凄まじく罪深い。国家や先人を冒涜する許しがたい行為だ。そして、軽率に虚偽情報を発信し続けた朝日新聞ら報道機関の責任は重大である。 トーマスロックリー氏の著書によって日本のみならず各国に拡散された情報には不確かなものが多い。拡散された間違った歴史認識が外国で根付いてしまう可能性も否定できない。何より、一度発信された情報を完全に消し去ることは不可能に近い。人の関心は長続きしない。間違った情報は間違ったままに放置され存在することになる。問題を不用意に煽る必要はないが、事実に基づかない歴史の上書きは国家として容認するべきではない。不用意な介入は表現の自由を妨げる。とはいえ、「虚偽の風説を流布」することは信用棄損や名誉棄損などの罪に問えないのだろうか。歴史の上書きは一種のテロ行為、油断してはならないという警鐘をここに記しておきたい。(おわり)
2025.04.06
著者であるトーマスロックリー氏による自作自演行為が発覚 (写真 トーマスロックリー氏) トーマスロックリー氏の生み出した凡そ学術的ではない弥助像が世界中に広まりつつある。弥助に関してのみならず誤った世相や慣習まで一緒に広めることになってしまっている。「当時の日本では黒人は差別されておらず、むしろ尊敬されていた。なぜなら日本の寺院では仏像が黒く描かれていたからだ」という記述があるがイエズス会日本年報には「家臣に弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、南蛮寺と命じた」とあることから寧ろ差別されていたのではないかとも思える。トーマスロックリー氏の作品には明らかな憶測が断定的に著わされており多くの批判を受ける要因となっている。 インターネット上では活発な議論がされつつも論点が独り歩きし問題をややこしくしている。「弥助の存在が日本国内の名士の間で黒人奴隷を持つ流行となった」という真偽不確かな記述がいつの間にか「日本が黒人奴隷制度を世界に広めるきっかけを作った」などと内容が変貌をしている。誤った情報はセンセーショナルであるほど独り歩きするものだ。 トーマスロックリー氏は日本大学准教授とはいえ語学教師である。歴史家としての実績は乏しい。当該の弥助に関する著述を学者として記したのであれば大いに問題があるが小説であることを前提としていればここまで大きな問題にはならなかったであろう。憶測と空想に裏付けはない。トーマスロックリー氏は自身の未発表の論文や弥助に関する著書を引用先としてWikipediaなどの編集を自分で行ったことが問題をこじらせた。弥助に関するWikipedia情報をトーマスロックリー氏が作成し、情報の根拠とする引用先を自身の未発表論文や自身の著作とし、アリバイ工作を行った。フィクションを裏付けるのはフィクションしかない。トーマスロックリー氏は約3年間にわたWikipediaの弥助に関しての情報を独占することで自書の内容を正当化しようとした。もしこのような行為がバレずに史実化することが可能なら歴史の改ざんは容易に為せることということになる。当然、隠し切れずにトーマスロックリー氏の行為は発覚し非難を浴びている。
2025.04.05
『グッバイ原稿用紙』 この原稿は400字である。つまり原稿用紙1枚分だ。俺はこれをパソコンで書いているのだが、一昔前までは原稿用紙を使っていたせいか、一体、今どれくらい進んでいるのか非常に分かりにくい。一応、左下に文字カウント表示はあるが、これは現状、何文字書いたのかが分かるだけである。 俺としては残りの文字数が一目瞭然の原稿用紙の方がイメージを掴みやすい。きっと俺は最後の原稿用紙世代なのだろう、未だにパソコンに慣れない。 初めて原稿用紙を使った少年時代、遠足の作文1枚書く時に、まだ右側しか書けてないから残りを絵で描いたらイメージが湧いて、結果、文章が浮かび上がって来たこともあった。アナログのいい所である。原稿用紙の需要が減った今、博物館などにある作家の生原稿の展示もなくなるのだろうか。 もしかしたら未来の博物館には、「みなさん、これがかの有名な村上・・・」と、人気作家のUSBメモリが沢山並べられているのかもしれない。
2025.04.04
トーマスロックリー氏の著書は壮大なファンタジー 弥助に関する歴史的資料が非常に少ないことから俄然注目されるようになったのが、トーマスロックリー氏の著作「信長と弥助、本能寺を生き延びた黒人侍」(太田出版)である。この著書に著わすほどの弥助に関する史実は無い。上記に記した歴史的資料に残された情報以外は壮大なファンタジーである。トーマスロックリー氏も推測や憶測、希望的観測であることを隠しはしないが、問題は時代考証がハチャメチャであること。例えば、「地元の名士の間ではキリスト教徒であろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。」“ようだ”と付せば何を書いても良いというわけではない。フィクションは歴史的資料が僅かしか残されていない弥助に関する推測であって背景となる時代考証は確かなものだと受け止める読者も少なくないだろう。弥助は扶持を与えられていたことが資料に記されていることから奴隷ではないだろう。黒人を雇う日本の名士はいたが日本国内でアフリカ人奴隷を使うことが流行ったという史実は残されていないはずである。ルシオ・デ・ソウザ & 岡美穂子「奴隷たちの世界史」によると「航海王子」の名で知られるアヴィス朝のエンリケ王子(1394~1460年)の指揮下でポルトガルは本格的に海外進出に乗り出します。16世紀以降、新大陸の金鉱脈発見などにより金の価値が下落し始めると、奴隷が主要な貿易商品となっていきます。ポルトガル人たちはサブサハラ諸王国間の戦闘で発生する捕虜やムスリム商人との取引で、無尽蔵に奴隷を入手することができていました。アフリカ人奴隷を確保し奴隷貿易を本格化させたのはポルトガル人である。17世紀にはいるまでは奴隷貿易はポルトガル人の独占状態であった。同著では日本で布教活動を始めていたイエズス会は、ポルトガル人の貿易活動全般に関わり、16世紀末までは決して積極的とはいえないまでも、人身売買にも関与していました。ポルトガル人が日本で購入してよいのは「合法の奴隷」のみとされており、その合法性を証明する「セデュラ」と呼ばれる保証書を発行するのはイエズス会宣教師の仕事であったからです。と記されている。大航海時代の寵児であるポルトガル人は日本人を奴隷として世界各国に輸出していた。ポルトガル人の奴隷貿易はインド人に始まりアフリカ人、アジア人にまでラインナップを拡大していった。では、日本国内でアフリカ人奴隷が流行したのか。トーマスロックリー氏の著書にある「イエズス会は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対しており、通常はアフリカ人を伴うことはなかった」は相当違う。イエズス会は岡美穂子氏も指摘しているが国籍を問わない下人を伴っている。そして、ポルトガル人は奴隷貿易に立役者であり、イエズス会は日本人奴隷を世界に輸出する供給側の既得権益者である。イエズス会はトーマスロックリー氏の著述とは真逆の存在と察する。8世紀半ばくらいまで日本にも官奴婢・私奴婢が存在していたのは事実。日本に差別階級が存在したのも事実。渡来人が奴隷を連れていたことがあるのも事実。だが、弥助が黒人奴隷の流行の発端になったかどうかは資料が残っていないのだから誰も知らないはず。そういう意味でトーマスロックリー氏の記述は不確定なものと言える。 トーマスロックリー氏の「信長と弥助」(※写真)には以下のような出版社による紹介文が記され ている。 1582年、本能寺。織田信長の側近のなかに、特異な容貌でひときわ眼を惹く男がいた。その男こそ、日本史上初とされる黒人侍、弥助だった。信長の切腹後、弥助は危険をかえりみず、嫡男の信忠のもとへと走る。彼を駆り立てたのは、自分を信頼し、侍へと取り立てた信長への忠義心だった……。国内のみならず海外でも注目を集める異色の黒人侍、弥助。その知られざる生い立ちから来日にいたる経緯、信長との出会いと寵愛、本能寺後の足取りまで、詳細に踏み込んだ歴史ノンフィクション。弥助に関する情報はほとんど残されていない。新しい歴史的資料が発見されない限り弥助の生い立ちや来日の経緯など知りようもない。ノンフィクションとすることには偽りがある。本文の中にも推測と銘打っているように内容はフィクションに過ぎない。英語版であるYasuke: The true story of the legendary African Samuraiも誇大したタイトルをつけていて問題がある。「伝説のアフリカ人侍の実話」と解せるがこちらもその内容はフィクションに他ならない。「信長と弥助」とはタイトルも内容も違うことから別物の作品であろうが、いずれにせよ弥助に関する多くの史実は残されていない。
2025.04.04
朋誠堂喜三二とは旧知の仲良しで、黄表紙の走り『金々先生栄花夢』を著した恋川春町もまた、後に執筆活動を再開し蔦重を支えた売れっ子作家のひとりだった。本名は倉橋格(いたる)。紀州徳川家御付家老の安藤帯刀の次男であり、後に駿河小島藩(現静岡県静岡市清水区)滝脇松平家の家臣団のトップとなる。 藩政の中核を担いつつ戯作のほか浮世絵師としても活躍。洒落本や滑稽本の挿絵も手掛けている。喜三二の著作に提供した挿絵も多い。しかし田沼意次が失脚し松平定信が実権を握る世となったとき、悲劇的な結末を迎えてしまう。 江戸の悪所・歌舞伎と吉原は、地位こそ低かったがそこに身分を越えた様々な文化人が出入りし、江戸文化を産む土壌となった。喜三二はその典型だったが、同時に江戸留守居役という役職も一つのポイントだった。 江戸留守居役は御城使とも言われ、参勤交代で藩主が国元にいる間に藩の江戸屋敷に常駐し、幕府や他藩との折衝を始め様々な情報取集を行う役回り。言わば外交官であり、各藩の留守居役が集まって公認の組合を作り、他藩との横の連携も持っていた。 情報収集には飲み食いが付いて回る。留守居役は料亭通い、吉原通いが半ば職務になり、歯止めが利かなくなりがちだった。中には藩主よりも豪勢な生活を送る留守居役もおり、接待費の使い過ぎがどの藩でもしばしば問題視されていたという。 喜三二は、恐らくそれをよいことに吉原に通い詰め、吉原での通の遊び方や滑稽を綴った洒落本のヒット作も数多く残した。趣味と実益を兼ねた、何ともうらやましい話ではある。(つづく)
2025.04.03








