社会•事件 追跡スクープ 39年前に取り逃がした男をついに逮捕 その1
追跡スクープ 39年前に取り逃がした男をついに逮捕 その1
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2024/12/16

「灯台下暗し」で山口組弘道会もビックリ?

 9月2日、長崎県警は、長崎県松浦市の元市議会議員に対する名誉棄損容疑で、同県諫早市に住む無職の男性(75)を逮捕した。この男性は、1985年に山口組四代目竹中正久組長、同組若頭・中山勝正、ボディガードとして帯同していた山口組系南組組長・南力ら3人を射殺した殺人容疑で指名手配され、その後39年間も逃亡を続けた「後藤栄治」(本名:宮本榮治)だった。

 竹中四代目射殺事件をおさらいしておこう。

 1984年6月、山口組は三代目組長・田岡一雄亡き後に跡目争いが起こり、四代目組長になった竹中正久の襲名に反発した山広組山本広組長らが山口組を割って出て一和会を結成した。この一和会の中核組織である山広組若頭だったのが、同組傘下の後藤組組長だった後藤栄治である。
 「事件が起きたのは、1985年1月26日のことです。暗殺には、2系統から19人のヒットマンが合流して『暗殺部隊』を形成したのですが、後藤はそのリーダーでした。竹中四代目が囲っていた大阪府吹田市内にある愛人のマンションの部屋を突き止め、その2階の1部屋をアジトとして借りていたのは、一和会でも後藤とは別組織の組長でした。後藤は、その組長に直談判し、ぜひとも自分に殺害実行を譲ってほしいと懇願し、この組長は申し出を承諾、アジトをはじめ武器を提供したのです。結果この組長は、もうひとりの指示役と認定され、暴力団発砲事件の量刑が軽かった当時でも死刑が求刑され、無期懲役の判決を受けました。後藤については前出の3人を射殺した事件の指示役ですから、求刑されたとすれば間違いなく死刑だったでしょう。この事件で実行犯に襲撃を指揮した山広組内同心会会長の長野修一と一和会系悟道連合会会長・石川裕雄は、無期懲役の実刑判決を受け、長野は熊本刑務所に、石川は旭川刑務所に服役中です」(ヤクザライター)

 当時、殺人の公訴時効は25年。1985年発生の殺人事件は、2010年に時効となるが、この年の4月27日、「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」が成立・同日公布され、殺人罪の時効が廃止されている。事件がもし3ヵ月後だったら、後藤は一生追われる身だった。

 「分裂当初、山口組の構成員は約5000人、対する一和会は約6000人と数的優位にあったもの一和会側の有力組長らが次々と引退し、組織は弱体化した。そこで起死回生の一手として企てたのが竹中四代目の殺害計画だったのです。結局1989年3月になって、山口会長が自らの引退と一和会の解散を警察に届け、山口組に謝罪し抗争は終結しました」(同)。

 山一抗争は映画や出版物になって今やレジェンド物語となっている。後藤や長野、石川は俳優が演じているが、中でも石川は、極道の間では英雄視されている。

 「ヤクザを辞めてカタギになりますと一筆書けば仮釈放になるのに、それを書かず生涯極道を貫く姿勢」が極道たちの胸を打つという。名古屋を本拠とする竹中四代目山口組傘下、弘田組の弘田武志組長は、山口組と一和会との義理に悩んだが、「断固山口組に残るべし」との司忍若頭(現:山口組六代目組長)の進言を聞き入れ、引退を決意した大物組長の一人である。その後、苦渋の選択をした弘田組長の意志を継承し、司若頭が立ち上げたのが現在の弘道会だ。(その2に続く)

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