2025/02/11
もう少し教科書をおさらいしよう。田沼意次の時代の終わりは、毎年のように襲い掛かる天災にも後押しされた。1769(明和6)年の日向灘地震、干ばつ(1770~71年)、明和の大火・洪水(1772年)……特に天明の大飢饉(1782~87年)、浅間山の噴火・霜害(1783年)の後は江戸・大阪で打ちこわしが頻発した。
1784(天明4)年、意次の息子・意知が暗殺され、1786(天明6)年8月25日に11代将軍・家治が死去、その2日後に意次は老中の座を辞した。代わって力を得たのが松平定信。養子先の白河松平家(白河藩、現福島県白河市)から実家である御三卿・田安家に呼び戻され、老中首座に就いたのは1787(天明7)年6月だった。
定信は、天明の飢饉でも白河藩下で餓死者を出さなかった腕利き。翌1788(天明8)年から改革に着手し、農村からの人口流出を防ぐ様々な施策を講じたほか、意次の企画した新規事業を潰し、わいろを禁じるなど綱紀粛正を図り、倹約令で幕府や藩の財政難を救済した。
しかし、あまりに厳しい綱紀粛正に辟易した江戸城内、特に大奥から猛反発を食う。民衆の間でも田沼時代を懐かしむ有名な狂歌――白河の清きに魚の住みかねて/もとの濁りの田沼こひしき――が流行する有様。定信は1793(寛政5)年に老中の職を解かれた。
意外に知られていないのが、この期間の将軍家継承の経緯だ。一見、淡々と進められたかに見えて、実は陰険な謀略と流血に塗れていたと言われている。
そもそも松平定信は、老中どころか「吉宗の再来」と呼ばれた英才で、10代将軍の最有力候補だったのだ。なぜ将軍の座に就けなかったのか。(つづく)
TIMES
連載•小説








